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東京地方裁判所 昭和40年(行ウ)7号 判決 1969年4月30日

原告 沖田丈謹

右訴訟代理人弁護士 松崎憲司

岩田春之助

平田政蔵

岩田広一

被告 王子税務署長 井沢隆之助

右指定代理人 岸野祥一

<ほか三名>

主文

被告が昭和三八年一一月三〇日原告に対し原告の昭和三六年分所得税につき総所得金額を一四〇万九、二八〇円、所得税額を二八万三、二六〇円とする決定および無申告加算税七万七五〇円の賦課決定を取消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一、原告

主文同旨。

二、被告

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

第二請求原因

一  被告は昭和三八年一一月三〇日、原告に対し、原告の昭和三六年分所得税につき、総所得金額を一四〇万九、二八〇円、うち譲渡所得の課税標準となる金額を一四〇万九、二八〇円、所得税額を二八万三、二六〇円とする決定および無申告加算税七万七五〇円の賦課決定をした。

そこで原告は同年一二月二八日被告に対し異議申立をしたところ、被告は昭和三九年五月八日棄却決定をしたので、原告は同月二七日東京国税局長に審査請求をしたが、同局長は同年一〇月一六日棄却の裁定をなし、裁決書謄本は同月二八日原告に送達された。

二  しかし、原告には譲渡所得は全くないのであるから、被告の昭和三八年一一月三〇日付の右決定および賦課決定は違法である。よって原告はその取消を求めるため本訴請求に及んだ。

第三被告の答弁および主張

≪以下事実省略≫

理由

一  被告が昭和三八年一一月三〇日、原告に対し原告の昭和三六年分所得税につき、総所得金額を一四〇万九、二八〇円、うち譲渡所得の課税標準となる金額を一四〇万九、二八〇円、所得税額を二八万三、二六〇円とする決定および無申告加算税七万七五〇円の賦課決定をしたことは、当事者間に争いがない。

本件の唯一の争点は、原告が昭和三六年四月二五日沖田育枝との売買契約によって本件土地(富山市木町一番三宅地三八坪八合五勺)を育枝に金三〇〇万円で譲渡し、かつ、これによって右の譲渡所得を得たか否かにあるので、以下この点について判断する。

先ず本件土地について、昭和三六年五月一日付で、原告から育枝に対し、同年四月二五日付売買を原因とする所有権移転登記手続がなされていることは当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫を総合すると、原告は、昭和三六年二月頃、育枝に対し、自己の印鑑証明書をととのえて本件土地の所有権移転登記手続一切の履行を委任したことが認められる。≪証拠省略≫によると、右移転登記後は本件土地の固定資産税が育枝名義で育枝によって納付されていることが認められ、≪証拠省略≫によると、昭和三九年五月二六日、本件土地を含め、原告所有の土地および建物並びに育枝所有の建物を訴外竹中工務店(名古屋支店)に売渡す際に作成された契約書には、本件土地は育枝所有分として表示されていることが認められる。

二  ところで、原告は、右登記簿上に記載してある昭和三六年四月二五日付売買の事実はなく、原告と育枝との間には、本件土地を担保に供して住友銀行から金三〇〇万円の融資を受ける目的を達するために、登記簿上の所有名義を原告から育枝に移す旨の合意が成立したのにすぎないのであって、本件土地の所有権移転についての合意は全くなかったと主張するのである。もし、原告の主張どおりの事由があるとすれば、そのような合意の効力をどのように解するにしても、これをもって譲渡所得発生の原因となる事実ということはできない。そこで、果して原告の主張するような事実が存在するか否かについて判断する。

(一)  先ず、原告の生い立ち、育枝との身分関係、本件土地の所有権移転登記がなされるまでの財産関係等について考察すると、≪証拠省略≫を総合すると、次のように認められる。

原告は昭和六年七月富山市木町一番地において故沖田正近とその妻故ヤエとの間の四男として生れたが、ヤエ死亡後の昭和七年一二月育枝が後妻として沖田家に入り(昭和一〇年一二月婚姻届出)、原告と育枝との間に継母子関係を生ずるにいたった。ところが正近が昭和一七年一〇月死亡し、原告の兄正和が家督相続して正近を襲名したが、昭和一八年一一月同人の病死により、選定家督相続人の原告が家督相続し、育枝が原告の親権を行っていた。沖田家は代々富山市木町一番地で醸造業を営んでいたが、右正和の死亡後、育枝が営業名義人となって右事業の経営に当っていたところ、その後企業合同や戦後の集中排除措置等を経て、昭和二六年になって、再び育枝の営業名義に復活し、現在にいたった。原告は富山市の大学を卒業し昭和三〇年国税庁醸造試験所に入所したが、その頃までは、育枝との間は円満であり紛争はなかった。ところが、昭和三二年に原告が選んだ結婚の相手に対して育枝が反対し、かえって別の候補者を定めて同人との結婚を強くすすめたことに関連して、原告は反感を持つとともに、育枝の私生活についてかねてから抱いていた疑念を強くするにいたったことなどから、原告と育枝間には感情の対立を生ずるに至った。その後原告は、育枝の意見に反して昭和三三年四月結婚し、また醸造試験所を終えた後も、富山市に帰らず昭和三四年末頃まで東京都内でサラリーマン生活をしていたが、翌三五年になって事業経営を企て、同年八月頃からテー・エム化学という商事会社の経営を始めた。原告は、右の結婚問題により育枝と仲違いとなった頃から、育枝に対して、家督相続により原告の所有となっている財産を処分すると言ったり、それまで育枝が保管していた自己の実印の交付を要求したりなどして、沖田家の財産について強い関心を持つようになり、反面育枝も原告の右のような態度によって財産保全上の不安を感ずるにいたったが、原告は遂に富山市における沖田家の財産調査を畠山弁護士に依頼した。ところが、木町一番の土地の上に育枝名義の建物が建てられていること、木町一番の土地の外二筆の土地について昭和二六年一〇月北陸銀行富山袋町支店のために債権極度額金三〇〇万円とする根抵当権が設定されていたり(これは主として酒造業経営の費用を得るためである。)、昭和三五年五月に原告に無断で富山信用金庫のため債権極度額三、〇〇〇万円の根抵当権が設定されていること(原告が勝手に財産を処分しないようにするため育枝が財産保全のためにしたことである。)を原告が知るにいたり、また原告自身も事業経営の企てをしていたので、原告は、この際、育枝との間の家庭的紛争や財産問題を一挙に解決することを決意し、更にその解決方をも畠山弁護士に依頼した。同弁護士は、昭和三五年に育枝の無権限行為を関係取引者に対して書面で通告したり、富山市に行って育枝と交渉したが育枝の方でも弁護士を依頼し、両者折衝を重ねたすえ、昭和三五年一〇月二日、原告と育枝との間に、親子間の紛争を解決し、沖田家の財産配分についての基本割合等を定める和解契約が成立した。そして右の契約中主要な事項として、(一)同日現在における原告名義の物件として土地(そのなかには、木町一番の一の一、宅地二八二坪二合七勺、同番の一の二宅地一〇〇坪一勺、総曲輪一三八番九四坪八八勺その他が含まれている。)家屋二棟、動産および育枝所有名義の物件として家屋、納屋等をそれぞれ特定し、これらのうち不動産について将来売却処分する場合はその合計価格の三分の一は育枝、その合計価格の三分の二は原告の割合で、両者間で分配する。動産については育枝三分の一、原告三分の二の割合で現物で分配すること(二)右の土地について昭和三五年五月二日育枝が富山信用金庫のために設定した債権極度額三、〇〇〇万円の根抵当権の設定登記は、育枝において直ちに抹消登記手続をなすこと、(三)原告は育枝の行っている酒造販売営業(営業は個人経営とすること)および営業権について、何らの干渉もしないし、また何らの請求もしないこと、などが約定され、ここに両名間の一切の紛争が円満裡に解決された。この和解が成立した後、原告と育枝との間には信用が回復され、原告が育枝に自己の事業上の手形割引を依頼することなどもあったし、また、後に認定するように、少くとも昭和三八年本件課税処分に関する問題が起るまでは、原告の妻子も富山市の育枝を訪問し、お互いに往来するようになる位に、原告と育枝間の継母子関係は円満であった。ところで、右和解契約直後の昭和三五年一二月頃原告は畠山弁護士から右の紛争解決についての報酬三〇〇万円を請求されたが、手許に資金がなく困ったので、育枝に対して金三〇〇万円の金策の相談を持ちかけるにいたった。

このような事実が認められ、右認定を動かすに足る証拠はない。

(二)  次に、原告の融資依頼によって、原告と育枝との交渉が始まるのであるが、その間における両者間の合意の内容については後で認定するけれども、その結果として、昭和三六年五月一日本件土地について原告から育枝に対し、同年四月二五日付売買を原因とする所有権移転登記がなされたことは前記のとおりである。

(三)  ところで、原告は本件土地の譲渡所得について税務署の調査を受けることになるのであるが、原告本人尋問の結果(第一、二回)によると、昭和三八年六、七月頃、原告は王子税務署から昭和三六年分の所得税につき調査を受け、同署職員から本件土地の売買による譲渡所得の申告がない旨を告げられ、原告は、これに対して、それは売買でなく担保提供によって金融を得るため一時登記名義を変えたものであると答えたが、右職員から、それなら登記名義を回復するよう努力すべきであると指示され、その頃育枝と相談したこと、育枝はこれに対して名義を回復するには三〇〇万円を住友銀行に弁済せねばならないが、原告に返済資力がないかぎりいかんともできないではないかと答え(もっとも≪証拠省略≫によると、昭和三八年六月二七日受付で、住友銀行のため、更に債権極度額四〇〇万円の二番根抵当権設定登記がなされたことが認められる。)、原告はその頃住友銀行富山支店にも相談に行ったが、同銀行側は原告に対し登記名義はそのままにされたい旨述べたこと、もっともその頃原告は本件土地を含めて、原告所有の土地全部約三九〇坪を訴外竹中工務店(名古屋支店)に売渡そうと企てていたので、回復登記はできないけれども一括して売却してしまえばそれで一切が解決するのではないかと考えるにいたり、右土地三九〇坪の一括売却の件を平田弁護士に依頼したことが認められ、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

(四)  続いて、右土地三九〇坪の一括売却が実行されるに当り、原告と育枝との交渉が再び開始されたのであるが、≪証拠省略≫を総合すると、次の事実が認められる。昭和三八年秋頃、平田弁護士は、原告から本件土地を含む木町一番地一やその他沖田家の前記土地合計三九〇坪四合(都市計画仮換地地積)や地上建物を一括して売買することについて依頼を受けたので、じらい一〇数回にわたって東京都から富山市にでかけて行き育枝と相談したり、買受予定の竹中工務店と交渉したが、育枝は初め右不動産の一括売却には反対であり、ことさらに反応を示さず消極的態度を続けた。しかし昭和三九年三月頃になって、育枝も自己名義の前記建物を含めて、右不動産を竹中工務店に対して一括売渡すことについての承諾書を差入れ一箇月内に売買契約書に調印することを約するまでになったけれども、約束を履行しなかったので、原告の代理人平田弁護士は同年五月一八日、書面をもって、育枝に対して、一週間内に竹中工務店との売買契約書に原告とともに調印することやその他の事項を要求し、不履行の場合には昭和三五年一〇月二日付の原告との間に成立した前記和解契約を解除する旨通告し、また右解除のあかつきには、育枝の酒造権を認めないこと、本件土地の登記名義を原告に回復する手続をすみやかになすことなどを通告するとともに、その理由として、本件土地は育枝の所有でないことが明らかであって勝手に育枝名義にしたものであるからである旨を付記して、表明した。そこで育枝は、昭和三九年五月二六日原告とともに、木町一番一の土地など前記合計三九〇坪四合の土地のうち、北側の一二〇坪を除いたその余の部分すなわち南側の二七〇坪四合(このうち育枝名義となっている本件土地が含まれる。)および地上建物(前記和解契約において特定された建物と同一である。)を竹中工務店に売渡すことを約し売買契約書(甲第六号証)に調印した。右の代金は全部で一億三、五〇〇万円であったが、その配分は昭和三五年一〇月二日の和解契約に定めるところの、前記合計三九〇坪四合の土地全部および建物等の合計価格の三分の二を原告、三分の一を育枝が取得するという割合に合致するように行われた。すなわち、育枝が竹中工務店への売渡に承諾の意を示した当初の頃、右土地三九〇坪四合および建物等売却不動産の価格を合計一億八、〇〇〇万円と定め、そのうち三分の一に当る六、〇〇〇万円を育枝が取得し、三分の二を原告が取得することになっていたが、売買契約書に調印する直前頃になって、育枝は態度を変え、前記北側の一二〇坪を他に売らないで自己に取得維持できるようにすることを強く希望したので、原告は、竹中工務店と交渉してこの部分を竹中工務店に売ることをやめ、金銭のかわりにこれを育枝の所有になるものとして配分し、更に右売買代金中の一、八三〇万円を育枝に交付した。そしてこのことによって、育枝の取得分が前記和解契約の定める財産配分の割合に合致することを、原告および育枝は互に承認した。もっとも右一、八三〇万円のうち三〇〇万円は、畠山弁護士に対する報酬三〇〇万円の支払のため、本件土地につき根抵当権を設定して住友銀行から借主育枝名義で借受けた三〇〇万円が未払であるので、その費消者であり、実質的借主である原告が支払うのが本筋であるとして、原告が三〇〇万円を育枝に交付したものである。

なお、右売買契約が成立するに際しては、育枝は、本件土地三〇坪を別扱いにしてその残余の土地三六〇坪の代金を前記和解契約の定める割合(育枝三分の一、原告三分の二)で原告と配分するというような考えを毛頭抱いておらず、和解契約の対象となった不動産全部を、和解契約当時の状態において一体として評価した合計価格を右の割合で原告と配分するという積りであり、本件土地の所有名義が自己にあることから、それを和解契約の内容に変更があったものとして配分の方法を変えるというような申入れを全くしなかった。また原告側も、育枝名義の建物が右土地上に存在している関係上育枝に無用の警戒心を生ぜしめたり、感情を害したりしないように気を配り、しかもはじめ反対であった同人を説得したり警告を与えたりなどして、ようやく売買承諾にこぎつけることができたので、ともかく売買をすみやかに成立させるために、本件土地の所有名義を原告に移した上で売買契約書を作成するなどのことを提案せず、本件土地が育枝の所有分として表示してある売買契約書に調印したことが認められる。

このように認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(五)  以上は、昭和三五年一二月以前の原告と育枝との間に存在した諸関係および昭和三六年五月本件土地の所有権移転登記後において本件土地に関して原告と育枝との間に生じた一連の諸事情であるが、これらの諸事情を背景として、次に、昭和三五年一二月頃の原告の育枝に対する前記金策の依頼から昭和三六年五月本件土地の所有権移転登記済みまでの間に行われた原告と育枝との間の本件土地に関する合意がどのような内容のものであったかについて検討することにする。

前記のとおり、本件土地は木町一番の一の一の宅地の一部であるところ、それが全体の宅地の価格決定にどのような影響を与えるか、またどのようにして特定されたかについて、争いがあるのでまず、この点を考察しておこう。≪証拠省略≫を総合すると、本件土地は登記簿上の地積三八坪八合五勺、都市計画仮換地地積三〇坪であるが、原告所有の木町一番の一の一、同一番の一の二、富山市総曲輪一三八など沖田家伝来の長方形の土地合計五五五坪八勺(都市計画仮換地地積三九〇坪四合)の一部であり、この土地全体は南側は国道八号線に、東側は市電幹線道路にそれぞれ面し、西側は勧業銀行富山支店に接し、北側は六米の道路をへだてて岐阜相互銀行に接していること、同地上には原告名義の建物と育枝名義の建物や酒庫等があること、本件土地は右土地全体の東南角で国道に面して変形の間口約八間、奥行約四間の部分であり、全体の一〇分の一位の面積で全体の要所をおさえるという関係位置にあり、その部分が他に売却されると残りの部分の価値が下落することが必至であると認められる。また本件土地の昭和三六年四月当時の価格については、≪証拠省略≫によると、本件土地附近の土地の当時の路線評価額は坪当り九万六、〇〇〇円とされているが、他面≪証拠省略≫によると、住友銀行富山支店の貸付係長で育枝と取引上の面識のあった国府重則は、木町一番地の右土地の角地の当時の時価を坪当り二〇万円前後と評価していたことが認められ、また≪証拠省略≫によると、育枝も同年四、五月頃の時価は坪当り一五万円位と聞いていたことが認められる。また、前記(四)で認定したように、昭和三九年五月右土地のうち二七〇坪と地上の木造建物とが一括して一億三、五〇〇万円で竹中工務店に現実に売却されたことからみると、本件土地の昭和三六年当時の時価をいくらと評価するにしても、本件土地の部分が残部の土地の価格に与える影響は相当重要なものであったと認めることができる。そして、木町一番の一の一の土地のうち三〇坪の部分をどのようにして特定するかについては、育枝は、その第一回証人尋問において、育枝は初めは勧業銀行寄りと思っていたけれどもいろいろな折衝でどこでもともかく三〇〇万円早くほしいというので結局角から測るほうが測りやすいということで本件土地三〇坪を特定した旨供述しており、原告本人は、この点について、第一回原告本人尋問において、住友銀行に担保に入れることが必要なのは木町一番の一の一の土地のうち三〇坪前後であって、育枝がそのことを通知してきたときに、育枝はどこでもよいけれども国道に面した勧業銀行寄りのところにしましょうよと言った旨、およびこの三〇坪が本件土地の部分に特定されたいきさつはわからない旨を供述している。この証言部分と本人供述部分を総合すると、原告と育枝との間においては、三〇坪という面積に重点がおかれていて、それをどの場所に特定するかについてはお互いの関心は薄く、原告はその特定を適宜育枝にまかせていたものと推認される。≪証拠判断省略≫

そこで右認定の事実、前記(一)ないし(四)に認定した諸事実、≪証拠省略≫を総合すると、次のように認められる。

昭和三五年一二月頃原告から三〇〇万円の金策の相談を受けた(前記(一)の末尾に認定したとおり。)育枝は、その頃上京して原告とともに横浜市の畠山弁護士を訪問し、報酬金額や支払方法について更に相談したが、結局、三〇〇万円の一時払を要求されたので、富山市に帰り、取引銀行である住友銀行富山支店の貸付課長国府国重に対して、東京在住の原告から弁護士報酬支払のため三〇〇万円の金策を依頼してきた旨を告げて融資の相談をしたところ、同人から、そのような融資は極めて困難であること、また原告の土地を担保にして育枝が借受けることも困難である旨告げられ、原告にその旨を電話で知らせた。原告は、年内に金策ができないと、報酬の条件が変更されてしまうから、何としてでも借りてほしいと要望したので、育枝は更に国府に相談したところ、国府の示唆もあって、結局、育枝は、自分名義で土地購入資金を借受けるという名目で金三〇〇万円の融資を住友銀行富山支店に申込めば、本店の許しが得られ確実に借受けられるとの見通しを得、原告所有の木町一番の一の一の土地のうち三〇坪位の部分をいったん自分の登記名義に移してそれを担保にして三〇〇万円を借金するという方法で住友銀行に融資を申込むほかはないと思った。そこで、育枝は、原告に対してその旨を電話で知らせたところ、原告は、育枝に対し、そのような方法で三〇〇万円を借受けて貰いたい旨依頼した。当時、原告と育枝との間柄は、同年一〇月成立した前記財産配分の和解契約によって親密化し相互の信頼も回復しており、また育枝も原告の依頼を受けて原告のため弁護士との縁を切らせたいとの一念で文字どおり親身になって上京したり金策にほん走していた位であって、育枝が、この機会をとらえて、財産保全のため原告所有の木町一番の一の一の宅地(二八二坪二合七勺)のうちとくに三〇坪ほどを自己の所有に帰属せしめるとか、二月前に確定したばかりの右和解契約の条項に変更を加えようとする意思は全くなかったし、またその必要もなかった。まして育枝が、原告に対して、右宅地のうち、どこかの、又は特定の三〇坪の所有権を三〇〇万円で自己に譲渡することを申し入れたものでもない。原告としても、その点は同様であって、右宅地の一部三〇坪の所有権を育枝に帰属せしめる意思は全くなく、またこれを売渡す旨を表示したことはなく、ただ育枝名義で住友銀行から三〇〇万円の融資を受ける目的を達成する手段として、自己所有の木町一番の一の一の宅地のうち勧業銀行富山支店のある国道に面している箇所から三〇坪の部分を適宜分筆し、その登記簿上の所有名義を原告から育枝名義に変更することに同意し、かつ育枝に対して、同人が住友銀行のため右三〇坪に担保権を設定して金三〇〇万円を借受けることおよびそのために必要な分筆手続や登記手続等一切を履行することを委任し、育枝もこれを承諾したものである。そして、育枝は昭和三六年四月頃、本件土地の所有権移転登記にさきだち住友銀行から三〇〇万円を借入れることに成功し、その頃内金五〇万ないし七〇万円を持って上京し、畠山弁護士に直接会って報酬の一部として弁済し、その後、前記のように本件土地の所有権移転登記手続を済ませ、住友銀行から残金を借り受けて畠山弁護士に送金して報酬の支払をすませた。そして昭和三六年八月住友銀行のために本件土地に債権極度額四〇〇万円の根抵当権(一番)を設定した。

≪証拠判断省略≫。なお≪証拠省略≫によると、住友銀行からの借入金三〇〇万円の利息の支払は、育枝がしていることが認められ、≪証拠省略≫によると育枝は昭和四〇年三月一五日富山税務署に対する自己の昭和三九年分所得税の確定申告において、本件土地を竹中工務店に譲渡しその対価により事業財産の買換をした旨譲渡所得の計算の明細を記載していることが認められ、また≪証拠省略≫によると、本件課税処分の異議申立や審査請求の段階において原告やその代理人平田弁護士は本件土地の登記簿上の所有名義を原告に回復する旨しばしば約束しながら、昭和三九年一〇月二六日の裁決を受けるまでなんらの措置を講じなかったことが認めることができるが、このような事実は、前記諸事情の認定経過に照らして、右の認定をくつがえすに足りない。

更に前記一において認定した諸事実も右の認定のさまたげとならない。

(六)  以上認定のように、本件土地につき昭和三六年四月二五日付売買を原因として原告から育枝に、同年五月一日付で所有権移転登記がなされたのは、原告から育枝に対し本件土地の所有権を移転する旨の合意があったのではなくして、原告が、住友銀行から三〇〇万円の融資を得る目的を達成するため、売買の意思はないのにこれに名を借りて、本件土地の登記簿上の所有名義を原告から育枝名義に変更する旨の合意によるものと認めるのが相当である。

もっとも、前記二の(一)の認定事実中昭和三五年一二月二日原告と育枝との間に前記内容の和解契約が成立した事実および前記二の(四)の認定事実に、≪証拠省略≫を合せ考えると、原告は、昭和三九年五月二六日、本件土地を含む原告所有不動産を竹中工務店に売却するに当って、本件土地が育枝所有のものとして売買されることを暗黙に承認したものと認める余地がないわけではない。しかし、このことから、本件土地の所有権が昭和三六年五月にさかのぼって原告から育枝に移転したことの合意が成立したことを認めることはできないし、他にこのことを認めるに足る証拠はない。また仮に右の承認によって本件土地の所有権が原告から育枝に移転したとしても、その時期は竹中工務店に売却した時点である昭和三九年五月であるというほかなく、右の承認によって。昭和三六年中に原告に譲渡所得の原因が生じたものとなすことはできない。

五  右の次第であって、昭和三六年中原告と育枝との間に本件土地について生じた右認定の合意は、旧所得税法第九条第一項の定める譲渡所得を発生せしめるものと解することはできないのであって、本件土地について原告から育枝に所有権の譲渡があったことを前提として、原告に昭和三六年分の譲渡所得があるとの認定のもとになされた本件決定および賦課決定の処分は、いずれも違法というべく、取消しを免れない。

よって原告の本訴請求は正当としてこれを認容すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 緒方節郎 裁判官 小木曽競 山下薫)

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